アフリカビジネス奮闘記(青年海外協力隊のなれの果て。ベンチャー創業から廃業、そして新たな決意)

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1. 遠い記憶、中年の白昼夢

44歳中年サラリーマン男性、日々の仕事や生活の中、発作のようにこみあげてくる様々な記憶。

Africa-Japan.comプロジェクト

「熱狂」「甘酸っぱさ」「勘違い」「夢・希望」「妥協」「情熱」「失恋」「若さ」「失敗」「出会い」「諦め」「挫折」

いったい、あれは何だったのか?

2. 二十四歳、サマーハットにて

青年海外協力隊平成8年度2次隊ガーナ理数科教師。20世紀の後半、20代前半の私はガーナにいた。

協力隊派遣先のアディドメ高校の屋外職員室(通称「サマーハット」)は、授業の合間を過ごす先生方の憩いの場であった。私も授業のない時間帯はずっとココで採点や授業準備をしていた。

サマーハットで繰り広げられる先生方による活発な議論(井戸端会議)、生徒や授業に関する仕事の話、家庭や生活のグチ、昼に食べたランチの質、政治経済・国際問題の話、など話好きのガーナ人の先生方との時間はとても充実していた。その中で私は唯一の外国人として新しい話題の提供という役割を担っていた。日本の政治・教育システム、最先端の技術、日本の歴史などなど、その話題の一つに「インターネットの可能性」があった。

20年前のアディドメ村。電気は村の中心部のみ、村には水道、ガス、インターネットはおろか電話すらない。電話をかけるためには隣街まで行かなければならない。そもそもアディドメ村には電話を使ったことのある人はほとんどいない。

しかしサマーハットの住人に一人だけ電子メールの存在を知っている先生が居た。将来のビジネスパートナーになるGD氏だ。首都アクラで働いている兄弟から電子メールを含むインターネットの可能性を聞いていたGD氏、私の話を興味深く聞いてくれていた。

さてサマーハットでの議論、佳境に入ると必ず経済状況への嘆きと政治不信の話になる。その根本には教員の給与の低さがある。多くの先生は教員をしながらも農業等を兼業していた。

日本で良い仕事を紹介してくれないか?

当時、幾度となく聞かれた。当然、世間知らずの私が仕事なんて紹介できるわけがない。当時世界第二位の経済大国から来た人間、全くの役立たずであった。

そして1998年、協力隊の任期が終わろうかというあの日のことはよく覚えている。毎日同じように繰り返されるサマーハットでの井戸端会議の中で私に衝撃が走った。

私の中で「アフリカ」が「インターネット」とつながったのだ。

「啓示」と言っても良いかもしれない。日々、大なり小なりアイデアは思い浮かぶ。しかし、このアイデアだけは「絶対に自分自身がやるべきこと」という使命感に似た思いとともやってきた。インターネットとアフリカというアイデア、いろいろと可能性はある。そして何より先生方の「仕事はないか」との要望にも応えられる。

資金力ゼロ、在庫リスク回避といった条件の下、二つの事業プランを考えた。一つは英文添削サービス、もう一つは情報提供サービスである。

3. 英文添削サービス事業プラン(事業名:International Education Network, IEN)

簡単に言うと「英文添削のオフショアサービス(海外委託)」。日本人が書いた英語のエッセイをインターネットでガーナに送り、ガーナ人の英語教師に添削してもらうというサービスである。当時、TOEFL(R)でショートエッセイの問題形式が導入されるなど、一定規模の需要が見込めた。

価格設定は、1通(400字)300円。当時の同種のサービスの7分の1の超低価格

この事業内容には自信があった。

  • 日本とガーナの一人当たりの所得差は70倍
  • ガーナには優秀な人材が豊富(当時の国連事務総長のコフィアナン氏はガーナ人)
  • ガーナの公用語は英語(クィーンズイングリッシュ)

この事業プランに弱点は見つからない。事業名称をIEN(International Education Network)とし、事業をスタートした。

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他社比較(1999年当時、インターネット調べ)

 

当時のホームページ

※詳細はこちら

4. 事業立ち上げ

大阪大学の大学院に籍を残したまま休学という形で協力隊に参加していたので、帰国後も大阪に住むことにした。

帰国後直ぐに大阪日本橋のジャンク屋で買いそろえた部品でPCを組上げ、ネット環境を整える。固定IPによるサーバー運用は現実的でないので、レンタルサーバーを借り独自ドメインを取得してホームページを開設して事業をスタートさせた。

当然、最初から顧客など付くはずはない。全く発注のない時期が数ヶ月続いたが、焦りは全くと言ってよいほど無かった。事業モデルについて根拠のない自信があった。時間が全てを解決してくれる、それまでは勉強期間だ、という思いで兎に角勉強した

まずは書籍や文献を読み漁る。図書館や本屋でコミュニケーション、モチベーション、プログラミング、心理学、貿易、金融、言語学、あらゆる本を手にする。今までの学校の「お勉強」はテストに合格するため、良い論文を書くため、という目的があった。一方で、この時期の勉強は「どうすれば英文添削ビジネスを軌道に乗せられるか」というクリアで具体的な目標があった。知識の吸収の性質が全く異なっていた。暇さえあれば、書籍を手に取り、あらゆる場所に付箋をつけていた。

この時に得た大量の知識が理由かもしれないが、その後仕事やプライベートで出会う大人を二種類のタイプに分類するようになった。「ビジネス書タイプ」「非ビジネス書タイプ」かの二種類だ。「ビジネス書タイプ」は思ったとおりの反応をする。仕事を進める上では組みしやすい一方で過去の事例や人間関係等の「型」に固執するために発展が望めない。環境の変化が激しい現代においては過去の知識や経験を全て否定する位の非ビジネス書タイプの人間がこれからの世の中は生き残っていくような気がする。

書籍でのバーチャルな知識と同時に、セミナーや交流会にも積極的に参加した。1999年は世間で言うドットコムバブル(インターネットバブル)、80年代のバブル崩壊から徐々に復活してきた投資家たちが次の投資先を探すべく数多くの機会(飲み会やセミナー)をベンチャー企業に提供していた時期である。

当時の私が掲載されている記事

「インターネット王国、どこへ行く!!第3回 It’s Bit River ~日本初、五大検索エンジン集結!」、ASCII.jpより

この手のリアルな情報交換会は、書籍では決して得られない貴重な情報が得られる。そして事業を大きく飛躍させる以下の情報を得るのである。

5. SEOが流れを変えた

例えば、GoogleやYahoo!で「英語学習」を検索すれば、その上位の検索結果の全てはスポンサーによるPRだ。GoogleやYahoo!の収益源は正にこの検索結果の販売にある。

1999年でも同様のことが言えた。当時の検索サイト大手のYahoo!はいわゆるディレクトリ型検索が主流であり、如何にディレクトリの上位にサイトを掲載してもらうか、或いは「オススメ」のアイコンをつけてもらうか、が全てであった。これらの作業のほとんどが人力で行われていたため、「Yahoo!やExciteの担当者と如何にして知り合いになるか」が交流会でのホットトピックであった。

人力ではないロボット型検索エンジンであるGoogleは米国で未だ立ち上がったばかりで日本でその存在は殆ど認識されていなかったが、日本にはNTTが提供するGooや早稲田大学の千里眼というロボット検索エンジンがあり、それなりのシェアがあった。

ある交流会で、同じくベンチャーを立ち上げた京大の学生が「必殺技を教えてやる」と耳打ちしてくれた。

「Gooや千里眼みたいなロボット検索にひっかけるために、背景色と同じ色の文字で検索キーワードをサイトの一番下に100個書け」

というものだ。もちろんHTMLのメタ領域にはロボット検索にひっかけたいキーワードを列挙する属性は存在していた。しかし、それを無視してサイトに直接書くという方法は単純であったが思いつかなかった。

今で言うとSEO(Search Engine Optimization)という技法だ。全くコストをかけずにアクセス数を増加させることができる(注1)

このアドバイスで完全に流れが変わった。

「英語学習」「語学学習」「英会話」「英文エッセイ」といった用語を小さな文字の背景色(白)でホームページに掲載した。もちろん一見したところではそれらの文字は全く見えない。サイトへの訪問者の数は激増し、発注も受けるようになった。

英文添削サービスは熱狂と興奮への入り口に差し掛かっていた。

(注1)現在の検索エンジンのアルゴルは、この「隠しテキスト」のようなテクニックは無視されるかペナルティが課されると思われます。

6. 学生ビジネスコンテスト大賞受賞

SEO対策以来、受注数は急増しリピーターも現れ始めた。複数案件を一括で受注するという大型取引もあった。英文添削事業、気持ちも身体もトップギアに入れて事業拡大に全力投球!

青年海外協力隊の活動は「無償の奉仕」ではない。協力隊の活動後の社会復帰のために無職で参加した者に対して協力隊活動期間に毎月10万円弱が国内に積み立てられていく。この国内積立金240万円はレンタルサーバー代やガーナとの通信費、情報交換のための会合(飲み会)・セミナー等に利用させてもらっていたが、バイトもせずに事業に集中していたため、みるみる無くなっていった。

少しでも出費を抑えるため、自炊するときは近くのスーパーで買ったマトンの醤油漬けとハングル語が書かれたソーメンばかり食べていた。

この年、日刊工業新聞社が主催する第一回キャンパスビジネスグランプリが開催された。大賞賞金はなんと100万円である。

この募集を見た瞬間、「絶対に大賞がとれる」との根拠のない自信があった。

募集を見たその日に、事業プランを含めた全ての書類をそろえて応募したと記憶している。それほど、事業のことで頭の中が一杯であった。

そして大賞を獲得することが出来た。

今にして思えば、いくつもの偶然が重なって大賞がとることが出来たのではないかと思う。起業のノウハウを知らない他の応募者にとってはアイデアの具体性や事業性を応募用紙に表現するのは困難だった考える。実際に事業をしていた私に一日の長があったわけだ。また第一回ということで競争率も高くなかったと思う。

この賞金100万円は助かった。食卓のマトンがある時期だけ牛肉に代わっていた。

この時初めて、こういう賞金にも贈与税10%がかかることを知った。

7. メディア取材

ドットコムバブルの中、英文添削サービスはいくつかのメディアに取り上げられた。

7-1. ラジオ放送

1999年9月13日(月)、東京のラジオ局J-waveのTokyo Todayに出演し、英文添削サービスを紹介させていただいた。インタビュー形式の約5分間、放送の内容は:

  • 事業にいたった理由
  • ガーナ人の英語力
  • 採算性
  • 将来の展開

生まれて初めての生放送での出演。緊張するというよりも、自分の肉声が直接何千人もの人に届くことに興奮を覚えていた。

7-2. 新聞

共同通信社の方から取材を受けたほか、複数の新聞に記事を掲載していただいた。

日刊工業新聞(2000/01/28)、解像度を落としています

 

京都新聞(1999/08/10)、解像度を落としています

7-3. 雑誌

雑誌にも掲載していただく。

雑誌「SOHOコンピューティング」Cybiz社、解像度を落としています

メディアに掲載されるたびに、ホームページへのアクセス数は伸び、自ずと発注数も増えていった。

8. 熱狂のドットコムバブル

90年代後半、米国のシリコンバレーにならって渋谷でネットビジネスを盛り上げようという一連の動き、我々はビットバレー(BitValley)と呼んでいた。この流れの中で、今や大企業までに成長したDeNA社やサイバーエージェント社がある。堀江貴文氏もこの時期に起業された。そこまで行かなくとも、その後も事業内容を変えながら、東証一部に上場した知り合いも少なくない。

社会人のみならず、学生や主婦、一線を引退した年金生活者まで、インターネットビジネスの可能性に熱狂していた。

当時の私はその熱狂の中にいた。

大阪に住んでいた関係で、ビットバレー(BitValley)の地方組織ベタバレー(BetaValley)(大阪は「ベタな組織やで~」という意味)に主に参加させていただいていた。

当時のベタバレーの会合(飲み会)、起業家、投資家、企業の企画部門の担当者、マスコミでごった返していた。私は毎回、50枚位の名刺を用意して参加していたが、全て使い果たしていた。

ベタバレーの集まり(飲み会)は、なんば周辺が多かった

 

ちなみに当時の参加者の多くは、スマホの原型であるPDA(Personal Digital Assistant)を所有していた。OSはWindows CEやPalmOS。「これが社会インフラになれば凄いことになる」と皆で話していた。それが実現するのは、8年後(2007年)の初代iPhoneが登場するまで待たなければならなかった。

また当時の投資家(エンジェルとかインキュベーターとか呼ばれていた)の営業攻勢も凄かった。「○さんのアタッシュケースには○千万入っている」とか「金額が入っていない小切手をもらったことがある」とか「○○さんに頼めば芸能人の〇〇に会わせてくれる」とか嘘か本当か分からない噂もチラホラ。

私のビジネスモデルは語学教育ということで地味ではあったが、それでも一部の投資家たちから「話を詳しく聞かせてほしい」という誘いを何度か受けた。北新地の高級ラウンジで英文添削100通分の売上以上もするボトルを空けてもらったり、神戸牛のステーキレストランで値段の書いていないメニューで注文させてもらったりもした。

90年代後半のドットコムバブル、インターネットという未知の力を信じた人たち、先行者利益を必死に確保しようとする実業家、それに乗っかろうと投資家たちによる異常な世界であった。

9. 拡がる人間関係

ベンチャーの関係者以外にも人間関係が一気に拡がった。

  • 大阪の某大学の英語教育関係の講師から「非欧米諸国の英語教師による英語教育」というテーマに関する協力要請にこたえる
  • 途上国を支援したい!協力したい!という若い方々から声がかかる
  • コンパの自己紹介では「学生起業家」。学生の中でひとり名刺を配っていた(当時は珍しかった)

内向きな性格だった自分の大きな転換点であった。

10.怖いものなど何もない

圧倒的な価格競争力を備えたビジネスモデル。ガーナの英語教員にも収入の機会を提供するという大義名分もある。世間も認めてくれている。自分のやっていることは正しい

万能感にあふれ、自分は特別だと本気で考えていた。何のためらいもなく野心家を気取っていた。

怖いものなど存在しなかった

11. 下降線

何がキッカケだったかわからない。歯車が狂い始めたことに気づいた時には取り返しがつかない状況だった。

11-1. コミュニケーション

英文添削サービスは、インターネットを使った時空間を越えたコミュニケーションで成り立つビジネスモデル。テクノロジーは手段でしかない。動かすのは「人」である。

ガーナ側から添削結果や質問に対する回答がなかなか返ってこない。それもそのはず、ガーナはガーナで自分たちの本業がある。英文添削はあくまでも副業である。ガーナ人と役割りは共有しても、事業に対する想いまでも共有していたわけではない。

更に通信環境が大きなハードルとなった。ガーナ側のカウンターパートであるGD氏はアディドメに居る。アディドメにはインターネットはおろか電話すらない。

人脈を駆使することで電話会議を設定して各種調整をしようとしても、お互いの利害がぶつかり合い話が進まない。インターネット電話が無い時代、一分間の電話代は数百円。通信費だけで月間一万円を下ることはなかった。

11-2. 粗利率6割

商売をしたことがない私が生まれて初めて自分の提供するサービスの値段をつける。

粗利率6割

どこかのビジネス本に記載されていた。この粗利率に基づいて以下の料金体系を設定した。

売り値                  300円/一件
仕入れ値              US1$/一件

粗利率は6割以上でありながら、他社と比べて圧倒的なコスト競争力がある。この価格設定で何の問題もないはずだ。最初はそう思っていた。

当時の院卒の初任給が20万円くらい。これを稼ぐためには、月間1000件の英文添削を処理しなくてはならない。一日30件強だ。しかも経費や休日は考慮されていない。

一日に10件をさばくだけでイッパイイッパイなのに30件/日は不可能だ。たとえ値段を2倍~3倍にしても大勢に影響は無い。

自分のビジネスモデルが間違っていたのか?

上がガーナセディ、下がUSドル。

11-3. クレーマー

世の中は広い。自分が如何に恵まれた環境で育ってきたか、自分とは異なる意見を持っている人が世界にどれだけいることか、恐ろしいほど体験した。

 「添削結果に満足しなければ入金しなくて良い」

当初設定した利用規約である。後払いにすることで添削の品質に対するアリバイ作りをしていた。これでクレーマー対策は万全だと思っていた。しかし実際はそんな簡単な話ではない。

言葉(英語)の添削である。唯一無二の正解等は存在しない。それに対して、あらゆる理屈と言いがかりを一身に浴びた。英文添削が300円だろうが300万円だろうが関係ない。お客様は神様であり、絶対である。

2ch・5ちゃんねるの前身である「あめぞう」にも華々しくデビューさせられた。当時のネットリテラシーは著しく低く、言葉に容赦はない。プライバシーの概念やプロバイダ責任制限法は存在せず、サンドバック状態である。この時、人間の悪い面を見てしまった気がする。

11-4. 人間不信

やらなければならないことは山積みされているのに、軍資金は底をつき、時間も足りない。

「苦しい時ほど周囲の声に耳をかそう」「原点に立ち返ろう」「悲観は気分、楽観は意思」「まわりと比較せず自分の昨日と比較せよ」

散々勉強して付箋だらけのビジネス書の言葉は全く役に立たなかった

大学体育会で苦楽を共にした学卒の同級生は既に社会人5年目。一流企業で役職についている者もいた。彼ら・彼女らと話すのが辛かった。必死に「個性的で魅力的な自分」を取り繕うとするが、実が伴っていないので説得力がない。社会で揉まれている彼ら・彼女らにしてみれば戯言にしか聞こえていなかったのだろう。

身も心もボロボロになり始めていた。そして人と会うのが怖くなっていった。

11-5. 親父

当時の私は英文添削サービスの運営をしていると同時に、大学の研究室に在籍し修士論文の準備もしていた。

旋盤やフライス盤を使って実験設備の製作をしたり、ワークステーションを使ってプログラミングをしたりと、普通の院生に混じって日中は過ごしていた。夕方以降は、ガーナとの交信、顧客対応、各種書類の作成でいつも気がつくと朝を迎えていた。

徹夜がデフォルトになり、段々と正常な思考が出来なくなってきていた。

メールソフトを立ち上げる前に気持ちを落ち着かせるために何度も深呼吸。鳴るはずもないガーナからの電話を寝ずに待ったりもした。人間不信に陥り人と話せなくなっていた。

頼れるのは家族だけ。親父に「このまま院生を続けるか、それとも事業に集中するか」を相談した。工業高校の進路指導を長年やっていた親父、卒業生からは絶大な支持を得ていた。実の一人息子から相談である、きっと良いアドバイスをしてくれるに違いない。

自分で決めろ

と一言だけ。微塵のヒントすらくれない。院生の道と事業の道とのメリット・デメリットくらいはアドバイスしてくれることを期待していただけにショックは大きかった。

後日、親父に当時の話を聞いてみた。「どっちが良いか」の選択など悩みなどではない、自分で勝手に決めればよい。当時の私には「どっちが最悪でないか」という選択が迫られるくらいの切迫感が未だなかった、とのことである。アドバイスを求めているのではなく、事業を止めるための便利な言い訳を求めている意志薄弱なズルさがあったそうだ。

もちろん、親父の知識や経験からすると私へのアドバイスなどたやすいことだっただろう。実の息子の進路である、干渉したくなる気持ちは小さくなかったと思う。

それを敢えて「自分で決めろ」と言った親父、息子の将来を案じる親父なりの対応だったのだろう。私もこういう親になりたい。

12. サマーハットで見た夢

失敗

今だから言える。だが当時の私には「失敗」などありえない。ビジネスコンテストでは大賞をとり、マスコミにも取り上げられていた。

「若いのに頑張っているな」「その発想は素晴らしい」「行動力に感心するよ」

スポットライトの中心にいた自分のイメージしかない中で、失敗した自分、能力の無い自分というものが全く受け入れられなかった。

しかし、世の中は残酷である。

積みあがる未処理の英文原稿を見ながら気づいた。

 ガーナの先生に収入の機会を

サマーハットで思いついたこの高尚な目標は私の中から完全に消えていた。その時、英文添削サービスを辞めることを決心した。

事業を通じて、日ごろ会えないような沢山の人たちと会った。沢山の経験もした。しかし事業を閉じる時はあっけないものである。残りのオーダーを処理した後、ガーナ側に事情説明/謝罪の電話一本とメール一通で終わった。

誰からも惜しまれることはなく、誰からも気にも留められず、英文添削ビジネス、廃業である。

サマーハットで見た夢は幻だった。

<協力隊時代>サマーハットの先生方と。「収入の機会を」との約束は果たせなかった。ごめんなさい。

 

<協力隊時代>サマーハット。すべてはここから始まった

13. 私の天職です

英文添削サービス事業は悪いことばかりではなかった。その代表例は「特許」というキャリアとの出会いである。

1999年当時、ビジネス書では「ビジネスモデル特許」という言葉がトレンドであった。「事業プランが特許で20年間保護される。価格競争をしなくてもアイデアだけで大企業相手に戦える」といった内容だ。

これは凄い。人づてで大阪市内のO特許事務所に相談に行く。これが私の人生の転機となった。

対応していただいたのは、O特許事務所所長のO弁理士。私のつたない英文添削事業の説明を丁寧に聞いてくれてアドバイスをくれる。単なるアドバイスではなく事業の収益性や将来展開などについてもコメントしていただく。O弁理士のコミュニケーション能力の高さが新鮮だった。

そして何より「どうせ技術を理解できない法律家」くらいにしか思っていなかった私の知識を遥かに凌駕する技術知識を持っていらっしゃったのには驚いた。

かっこいい

これが私の素直な感想だ。大学研究室の研究室推薦枠で就職希望先を選ぶ機会があった。特許分野で日本一有名な企業を選らぼうとして選んだ企業が今勤めている会社である。(同時に特許庁入庁を目指し国家一種試験は合格したが官庁訪問で採用まではいけなかった。)

<創業以降>国家一種試験は合格したが特許庁入庁はかなわず

英文添削サービスを失敗させた私には事業に対するセンスはないかもしれない。ただ、その時にこのキャリアを選んだセンスだけは正しかったと今でも思う。特許の仕事に必要な素養は多岐に渡る。

  1. 最新の技術知識とそれを継続的にキャッチアップする意識
  2. 広くて深い技術に対する好奇心
  3. 自社・他社の事業展開の予測能力
  4. レベルの高いコミュニケーションスキル
  5. 世界各国の国策や司法・行政制度の継続的な把握
  6. 行間も読まなければならない語学センス
  7. 根性

それから3年後、私は弁理士試験の最終面接にのぞんでいた。意匠法の面接試験が若干早く終わり、面接官の方から「企業で働いているのか、特許事務所で働いているのか」「どういう仕事をしているのか」といった一般的な質問を受けた。最後に「特許の仕事はどう思うか?」と聞かれた。

 私の天職です。

こう答えた私の気持ちは今も変わっていない。

弁理士登録証。当時の登録番号は12499。現在は別の番号で登録。

14. 17年かけた総括

今回のガーナ再訪するまでは、英文添削サービスへの思いはずっと心の片隅に引っかかっていた。喉元過ぎれば熱さを忘れる、とは言うが忘れるまで17年もかかった。

ガーナ再訪をしているあいだ、ずっと当時を振り返っていた。そして今だから言える。

成功するか失敗するかは実はそれほど大した問題ではない。

17年かけた総括。やっと自分自身と折り合いをつけることができた。

14-1.やってみないと失敗すらしない

英文添削サービスは完全な「失敗」だった。しかし、この「失敗」は「悪」ではなかった。いろいろな経験をし、いろいろな考え方に接することができた。特許という天職も見つけた。

自分の身の丈をしたり顔で推し量り、何かをやる前から答えを出すのは姑息だ。何もアクションを起こさずに、「俺は失敗(又は成功)することは予想していた」というのは後出しジャンケンと何ら変わりない。スマホでGoogleを利用できる世界の中では、実践を伴わない知識は無価値だ

ガーナを再訪する前の違和感の正体はこれだったのかもしれない。最近、後出しジャンケンばかりしていなかったか?

沢山の失敗しよう。

笑われたってよい、望むところだ。馬鹿にされても良い、既に馬鹿な失敗は沢山している。「開き直るな」「勘違いするな」と叱責されても良い、レベルの低いアドバイスは聞いたふりをしておくだけで良い。

そして将来、また別の再訪記を書こう。

14-2.グローバル化

国と国との関係でいえば先進国と途上国。しかし個人レベルで考えた場合、私はガーナ人と対等に勝負できるだろうか?

繰り返しになるが情報化社会の中において知識そのものは無価値である。更にビックデータ・人工知能というものが経験という価値を無力化させようとしている。つまり先進国の温室の中で過ごした私の数十年間の知識や経験は今の時代の強みにはならない。

そのような環境の中、私がガーナ人に勝てる要素は何か?日本人のメンタリティーに立脚した丁寧さと根性だけか?

一方で、ガーナ人にはハングリーさという圧倒的なアドバンテージがある。更に私の知っているガーナ人の集中力は非常に高い。世界共通言語の英語はガーナの公用語だ。

彼らと同じ土俵に上がっても私の勝算の低い。ではどうするか?

私が考える今のご時世に必要とされている能力は「度胸」「非言語コミュニケーション能力」。「体力」も大事だと最近思い始めた。だから私はキューブを回し、手品を披露する。100kmマラソンやトライアスロンもする。

日本のローカルルールの下で、日本人同士で争っているようでは志が低すぎる。もっと強大で無数のライバルが海の向こうにはいる。

日本人という看板を下ろしても、世界のツワモノの中で余人をもって代えがたい存在でありたい。

14-3. 環境・前提の変化

  • 協力隊時代に砂利すら施設されていなかった土の道が、舗装道路になっていた。車で2時間必要だったところが15分になった。
  • 協力隊時代には電話や電気がなかった地域にも携帯電話や移動体通信の電波が届いている。WhatsAppで世界中の人たちとリアルタイムのコミュニケーションがとれる。ビートルズを知らなかった子供たちが、ジャスティンビーバーやP!nkを聴いている。
  • 協力隊時代の外国人の私を珍しがって駆け寄ってくれていた子供たち。今はアジア人なんてどこにだっている。
  • 協力隊時代の日本の一人当たりのGDPはガーナの70倍あった。今は20倍だ。日本人というだけでアドバンテージがあったのは昔話だ。

たった17年の間における変化ある。環境・前提がどんどん変わっている。ガーナだけではなく日本も。今まで是としていた価値観や倫理観では対応できないことが増えてきている。

これから更に17年経ったときにどうなっているかわからない。

こんな時代だからこそ自分の立ち位置をきちんと定義し、ブレないように生きなければならない。その上で環境や前提の変化に柔軟に対応できるだけの心の余裕と前例を否定できる勇気が必要となってくる。

難しい時代になってきている。そして面白い時代になってきている。

14-4.若くして旅をせざるものは、老いてのち何を語るや

たった17年、されど一人の人間の一生の中の17年はいくらなんでも長すぎる。もうすっかり中年になってしまった。更に17年たったら、もう現役引退の年齢になっている。

ずっと思い出と戦っていたのではないか?Africa-Japan.comが気になるのであれば、もう少し早めに手を打てたのではないか?「引退してから考えよう」と逃げていたのではないか?無意識に人生を半分降りていたのではないか?

待たなくてもよい時間、しなくてもよい苦労、過剰なまでの気遣い、横並びの意識、空気を読む力、どれも必要だ。無駄とは思わない。

でも寿命という事実は受け入れなくてはならない。シラケている暇はない

去年の1月に設けた死ぬまでにする100のことリストがなければガーナ再訪はなかったであろう。

「若くして旅をせざるものは、老いてのち何を語るや(出典不明)」

老いるまで、いや、死ぬまでに残された時間は、無駄にできるほど余っていない。

死ぬまでにやる100のことリスト

15. Africa-Japan.com

15-1. Africa-Japan.com(1999年~2000年)

英文添削サービスと並行して、アフリカポータルサイトの運営も始めていた。ドメイン名はAfrica-Japan.com。ディレクトリ型サーチエンジンを掲載すると同時に、ユーザーが自分でサイトを登録できる仕組みをperlというスクリプト言語で構築した。

  1. アフリカの情報に特化
  2. 毎週、何らかの特集記事を掲載(例:セミナー参加報告、アフリカ関係クイズ等)
  3. アフリカ関係組織(旅行者、小売店、楽器教室等)のバナー掲載
  4. アフリカ関連イベントカレンダーの掲載
  5. 協力者によるアフリカ関係のマンガの掲載

当時のAfrica-Japan.com

より多くの情報を得るために、ありとあらゆるアフリカ関係のグループやサークルに顔を出したり、アフリカ各国の大使館イベントに積極的に参加していた。青年海外協力隊のOV会(Old Volunteer会)にも足を運んでいた。

アフリカ関係者の前で英文添削サービスの紹介のプレゼン。

しかしどうしても違和感がある。

アフリカに住んだことがある人間の責務として、アフリカの偽りのない真実を伝える必要がある。アフリカのポジティブな面。アフリカには優秀な人材、ホスピタリティ溢れる人たちがいる。食事も選べば美味い。

一方で、一部の地域では貧しいのも確かだ。西欧文化では理解できない風習も多く残っている。こんなアフリカのネガティブな面は伝えたくない。

アフリカ好きの日本人、アフリカを支援する日本人、アフリカとビジネスをする日本人、いろいろな人に会ったが、どの方も如何にアフリカの情報を普通の日本人に誤解や偏見を抱かせることなく伝えるか、という点に腐心していた。そして、それに対する明確な答えは誰も持っていなかった。

そんなことを考え始めると自然と日本のアフリカコミュニティーから足が遠のき、シドニー駐在が決まった2003年に完全にAfrica-Japan.comはその活動を止めてしまった。

15-2. Africa-Japan.com(2016年~)

そして、2016年ガーナの地でAfrica-Japan.comが復活するときが来た。Africa側とJapan側との提携を規定するための基本契約の締結の地に選んだのは勿論ゴールデンチューリップホテルのレストラン。Africa側の調印者はE氏、Japan側の調印者は私だ。

基本契約である。提携内容、守秘義務、補償内容、紛争の際の裁判管轄地などを規定するべきところであろう。しかし、この基本契約は金銭のためでも、トラブルの際の解決のためでもない。私たちの人生を豊かにするためのものだ。だから私たちの最も大切な部分を担保に、最も発展的な契約内容にしなければならない。私たちが同意した内容はシンプルだ。

WE ARE FRIENDS.

ゴールデンチューリップホテルの便せんで契約書作成。契約内容は「WE ARE FRIENDS.」

ゴールデンチューリップホテルの便せんで契約書作成。契約内容は「WE ARE FRIENDS.」

契約調印後撮影

「WE ARE FRIENDS.」これだけでよい。契約不履行であれば自分自身の人生を否定しているようなものだ。婚姻届と子供たちの出生届は別次元の話しとして、この基本契約は私の人生の中で間違いなく重要な書類の一つだ。

茶番だと言われれば、そうかもしれない。監督・脚本・主演・観客・評論・配給が自分自身の、私の人生劇場におけるハイライトである。

何が正しいかなんて誰にもわからない。

効率化のための優先順位の設定や、命中率を高めるための解析や分析も必要ない。プロセスなんてどうだって良い。中長期的展望なんてあるわけない。他人に仁義を切る必要もない。とりあえずやってみる。いろいろやってみる。その中で一つでも死ぬまでに満足できるものが残ればよい。

15-3. ボートプロジェクト

協力隊時代、運動不足解消のためカヌーを購入/建造した。300US$位だったと思う。週末の午後、穏やかなボルタ川でゆっくりカヌーを漕ぎながら風を感じると何とも言えない穏やかな気持ちになる。アフリカの風土病のマラリアの媒体の蚊の生息地帯は「川べり」であるが「川の中心」まで来れば蚊は皆無である。台風の中心のようなものである。私が発見した蚊を気にせずに日光浴ができる場所である。

<協力隊時代>ボルタ川にて。川の中心でカヌーを漕ぐと何とも言えない穏やかな気持ちに。

協力隊時代のある日、E氏が「カヌーを貸してくれないか、川の渡しのビジネスをしたい」と相談される。月に数回しか利用しておらず、メンテナンスもしないといけなかったので「ジャンジャン使ってくれ」と同意する。

ビジネスといっても小さなカヌーであり一回に運べるのは5人程度。片道30分間カヌーを漕ぎ続けても大した額にはならない。カヌーを漕いだことがある人ならわかると思うが人を乗せたカヌーを漕ぐのはとんでもない体力を使う。しかし私が協力隊を終え帰国した後の数年間、E氏は真面目にカヌーを漕ぎ続け、看護師となるための学費をそのカヌー事業で稼ぎ切った。

E氏が看護師の大学に行った後も彼の兄弟が事業を引き継いでいたが、カヌー自体が劣化してしまったことと、E氏の成功をみた者が同様の事業を始めて競争が激しくなった、という理由で事業を始めてから7年くらいで止めてしまった。

そして2016年Africa-Japan.comの次のビジネスを模索している時、E氏から「カヌー(手漕ぎ)ではなくボート(スクリューエンジン付き)にすれば色々なことができる。川の渡しの他、〇〇や△△もある。」との提案を受ける。

面白い!

将来の見通しや具体的な計画があるわけではない。ムダ金にならないという根拠も何もない。でも感覚的にワクワクする話だ。そして彼と共同でボートを購入/建造することにした。資金は新品のゴルフセットを購入するために10年間少しずつ貯めていたものを流用した。購入したボートは25人乗り。エンジンは中古のヤマハ。長く使えるようにきっちりと防水塗装を施す。船名は「Boss Yuichi Hamada」号。

Africa-Japan.comの思いを乗せた「Boss Yuichi Hamada」号はボルタ川を疾走している。

Africa-Japan.comはここからがスタートだ。

アフリカビジネス奮闘記 完

はまゆう 記

2016年12月

※本記事は「ガーナ再訪記」No.43~No.52をまとめて再編集したものです。

コメント

  1. […] <読み物>アフリカビジネス顛末記https://africa-japan.com/blog/?p=15588 […]

  2. […] <まんが>青年海外協力隊回顧録https://africa-japan.com/blog/?cat=549<読み物>アフリカビジネス顛末記https://africa-japan.com/blog/?p=15588 […]

  3. […] ※本記事を含めたアフリカビジネス顛末記はこちらにまとめて掲載しています。 […]

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