[まんが]青年海外協力隊回顧録2(活動編1)

※20年以上前のことを思い出しながら執筆していますので、不正確な情報や現在と合わない情報が含まれている可能性があることにご注意ください。

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1. Flight to Ghana

同時期にガーナに赴任する協力隊員は11名。私のような大学院を休学して参加する者から、大企業の中堅社員が会社を辞めて参加する者まで様々。ちなみに、この11名のうち4名は「二本松イリュージョン」にかかってしまう。

※二本松イリュージョン・・・福島二本松での3か月の赴任前訓練で愛をはぐくみ、最終的に結婚までいってしまう幻想美談。(参考:赴任前編

生まれて初めてのパスポート(旅券)。協力隊隊員は、赤色(10年)や紺色(5年)の一般旅券ではなく、緑色の公用旅券を渡される。一般旅券と公用旅券の二重保持は許されていないので、一般旅券を持っている人は活動中に限り、協力隊事務局に預けていたようだ。

この公用旅券、非常に特殊なもので事前研修で「命の次に大事だ」みたいな説明を受けた。具体的には不明だが、この公用旅券により何らかの恩恵をあずかれるとのこと(少なくとも空港の入国審査でDiplomat Lineに並べるとのこと)。ガーナでパスポートを紛失した(盗難?)隊員は、ガーナの日本大使館に再発行の手続きをする際に丸坊主にしたとの噂があった(真意は不明)。

人生で初めての海外フライトはKLMのジャンボ。丸一日以上をかけて移動する。

ガーナコトカ空港に無事着陸し滑走路をタキシングしている間、陽気なガーナ人たちが歌っているのが非常に印象的だった。

2. クマシホームステイ

ガーナに到着後、直ぐにガーナ第2の都市クマシに移動。1週間程度、現地の家庭にホームステイしながら語学学校に通う機会をいただく。私のホームステイ先はクマシ大学の教授の家。

街を歩けば、数秒に一回は「オブロニ!(外人の意)」や「コンニチハ!」といった声がけに合う。ガーナの公共放送で「おしん」が放映された直後であったことから「オシン!」という声がけもあった。最初は茶化されているのかと思っていたが、しばらく経つと「私(ガーナ人)はあなたの存在に気づいていますよ」という意思表示なのだと思うようになり嬉しく思えた。ただし、この声がけを不快に思う日本人は多かった。

ホームステイの間にクマシ大学の医学生と仲良くなり、学生のパーティーに参加させてもらったり、彼の家に遊びに行ったりした。彼と一緒に動物園に行ったとき、「生まれて初めて象を見た」とは彼の弁。アフリカだからといって、動物がそこら中にいるとは限らない。

マーケットに行って準備。都市部のマーケットなので、輸入品などの品ぞろえは豊富。日記も買い、いよいよ派遣地のアディドメへ!

3. アディドメへ!

協力隊隊員は、派遣国からの「要請書」に基づいて派遣される。その要請書によれば、私の派遣地のアディドメ(Adidome)は、電気なし(*)、ガスなし、水道なし、電話なし、、、いろいろなし。

電気がないので灯りはケロシンランプ、ガスがないのでケロシンコンロ、水道がないので井戸水利用、電話をかけるときは隣町。

隊員採用試験の面接で「せっかく協力隊に参加するのだから過酷な環境でも良い」と言ったことから、この赴任地になったようだ。この環境、数日間のキャンプ程度であればよい。ただ着任直後、「この環境、一人で2年間」という現実を目の当たりにし、この発言を悔やんだ。

(*)活動期間中に、日本の援助でアディドメ村の一部が電化される

4. アディドメセカンダリースクール

私の派遣先の職場はアディドメセカンダリースクール(Adidome Secondary School)、ガーナの地方の高校だ。当時のガーナは慢性的な教員不足、特に理数系を教える教員は圧倒的に少なかった。ガーナ政府からの要請は、アディドメセカンダリースクールの教員不足を補うとともに、日本人の知見に基づいて周囲のガーナ人教師に刺激と好影響を与えること。

赴任日にアディドメセカンダリースクールにあいさつに行ったところ、既に学校のセメスター(学期)は始まっていた。そして物理の授業をする予定の2年生クラスには教師はおらず、急きょその場で授業をすることになった。

シラバスによれば2年物理の最初のテーマは「静電気」。授業準備をしていなかったが、持参していた塩化ビニルの下敷きと学校にあった洗剤で、静電気による物理現象を再現。「外人がやる授業」に興味をもった他のクラス生徒ものぞきに来るなど、なかなか好評だったのを覚えている。加えて、ガーナ人の髪質は硬く、下敷きをいくら擦っても、くっつかなかったことも覚えている。

5. いきなり壁にぶち当たる

正直言うと、派遣前は語学(英語)をなめていた。

英語については、特別なことは何も行っておらず大学受験程度の英語力しかなかったが不得意な科目ではなかった。 派遣前の訓練所では、入所時のテストに基づいてクラス編成が決まる。 このテストで高得点を取ることができ、最高レベルのクラスで授業を受けさせていただいた。周囲は海外駐在の経験者やバックパッカーで英語での実務経験豊富な方が多かった。自分はその中におり、英語環境でもやっていけるという根拠のない自信があった。

その自信は、一瞬のうちに崩れた。

ゆっくりと丁寧に説明したつもりでも、聞いている生徒は、ぽか~んとしていたり、「よく分からない」を連発したりと、こちらの意図が伝わっていないことはヒシヒシと感じていた。加えて現地語混じりで話す生徒の英語が分からない。教師というコミュニケーションで成り立つ業務にもかかわらず、それができていない。

加えて、ガーナの指導内容は意外に広く、自分が日本で習っていないようなことまで含まれている。日本にいれば図書館などで確認できるが、当時の派遣地ではそのような設備はない。もちろんインターネットなどは存在しない。ガーナはイギリスにならって実験を重視するカリキュラムになっており、この実験を準備するのに大変苦労した。

語学に指導内容、いきなりの壁であった。更に、、、、、

6. 「42キロ」

現地の状況が理解できてきた。

多数の生徒たちは経済的に恵まれているとは言えなかった。1セメスター5000円の授業料を捻出するために学校の前後に働いている生徒や、授業料が払えずに学校から追い出される生徒が多くいた。

そんな生徒たちにキチンと向き合うため、毎晩遅くまで授業ノートの準備。電気がなかったのでケロシンランプの灯りを頼りにしていた。このケロシンランプの悪いところは、ただでさえ暑い屋内を更に温めるほどの熱を発生させることに加え、目ヤニを大量に発生させる原因になることだ。長時間ケロシンランプを使用した翌朝は、目ヤニのために目が開けられなくなる。

赴任当初、食べ物が合わず、食がどんどん細くなっていく。

そして、怒涛のファーストセメスターが終わった瞬間、緊張感がとれたのか、体調が一気に悪化する。調べてみるとマラリアに罹患。折角の長期休暇を全て療養に費やす。

「42キロ」

フルマラソンの距離ではない。マラリア療養中の体重である。自分の学生時代のベスト体重は60キロ弱。 良く生きていたと思う。

ちなみにガーナ駐在の後にオーストラリアに6年間、中国に5年間住んだが、いずれも70キロを超えた。

マラリア療養中、蚊帳の中で毎日帰国することばかり考えていた。

とはいえ、電話も無線もないので、首都のJICA本部に連絡する手段がない。首都に向かうための手段を突き止める気力すら残っていなかった。

療養中、天井のシミを眺めながら、赴任前にオヤジに言われた「途中で逃げ出すなよ」との言葉が頭から離れなかった。

後日談ではあるが、親父の意図は以下のようなものであった。

新しい環境は若さで何とかなる。新しい人との関係作り、特に学校における信頼関係構築には経験が必要だ。アフリカ人だろうが日本人だろうが関係ない。当時の私は圧倒的に経験が不足しており、苦労することは目に見えていた。個々の悩みに対するアドバイスではなく、「帰ってくるな。そのための手段は自分で考えろ」という親父なりのアドバイスだった、、、と思う。

1997年3月(赴任4か月目)にぶち当たった難局。どう乗り切ったのか?→次号「青年海外協力隊回顧録3(活動編2)」にて!


【編集後記】

Surface付属のペンの精度はイマイチ。効率化を考えてAmazonでペンタブを購入してしまう(5,000円)。この投資分を回収するためにも、このまんがを完結させないといけない。多分、10話くらいになるかな。

死ぬまでにやる100のことNo.159「まんが『青年海外協力隊回顧録』を描き切る」→第二編達成