[まんが]青年海外協力隊参加の答え合わせ1 ~9(赴任前編)

※20年以上前のことを思い出しながら執筆していますので、不正確な情報や現在と合わない情報が含まれている可能性があることにご注意ください。

※青年海外協力隊の2018年秋募集(締め切り:2018/11/01)が始まっています。ご興味のある方はhttps://www.jica.go.jp/volunteer/ にアクセスされるのが良いかと思います。


「国際協力」とは全く無縁の世界に生きてきた自分。

阪神淡路大震災で高校時代の友人が亡くなり、そのお父様の話をうかがったとき、自分の中で何かが変わった。そのタイミングで協力隊の募集を見たのは何かの縁だったと思う。

そして「協力隊と出会えて良かった」と今になって思う。この境地にたどり着くまでに20年かかったが。


協力隊の職種は多く、100種は下らない。

大学の研究室でロボットや電子機器について学んでいたので、当初は「医療機器」の職種を希望していた。しかし説明会で実務経験不足ということで即座にダメ出し。協力隊は現場での即戦力が求められる。

代わりに「理数科教師」を勧められる。教員免許の単位を取得していたこともあり、こちらに方針変更。その後、技術審査と語学審査(英語)、そして健康審査を無事突破。

あれよあれよ、という間に派遣に関する資料が送られてくる。学部生時代からお世話になっていたM教授に報告したところ、背中を後押ししていただき送り出していただいた。実は当時、大学院修士課程は原則4年間で修了しなければならないとの内規があり、通常で考えると3年間の休学(派遣期間は2年間だが派遣前訓練と派遣スケジュールの関係で3年間の休学が必要であった)は認められなかった。M教授の発意で私の三年休学に関して教授会にかけていただき、ご承認していただいた。M教授に足を向けて寝ることはできない。


普段から口数の少ない親父。報告の際も、特に驚いた様子もなく受け入れてくれた。ただ一言、

「途中で逃げ出すなよ。」

この言葉の本当の意味を知ったのはガーナに着任してから三か月後だった。


休学に入ってから派遣前訓練までの実家での五か月間、人生で初めてのモラトリアム期間であった。この期間は本当に辛かった。

唯一の楽しみはファミレスでのバイト。バイト仲間や常連のお客さんと過ごす時だけが、宙ぶらりんの自分を忘れさせてくれる時間だった。

それ以外の時間は、図書館で本を読んだり、昔の映画を観たりと、有り余る時間を持て余していた。最も気を滅入らせたのは、大手英会話スクールに週二回の通学。高額な授業料の割には全く上達している感覚は得られず、「本当に海外で仕事ができるのか?」という不安が募るばかりであった。

東京、大阪で活躍している同級生からの連絡の内容にひがんだりもした。

今の自分も同じであるが、暇になるとネガティブなこと(他人のこと、政治・経済・芸能人のゴシップ、等)ばかり考えてします。忙しすぎるのも問題だが、暇になりすぎることはもっと良くない。



訓練所は、福島県二本松。

自分は山口県人(長州人)なので、実をいうと会津に行くことは若干気が引けた(歴史的理由)。協力隊終了後も、オーストラリア(歴史上、唯一空爆したのは日本軍)に6年間と中国に5年間ほど駐在していた。すなわち十年以上も歴史的に難しい土地に住んだことになる。しかしながら、このあいだ一度たりとも、歴史を理由に不快な思いをすることはなかった。愛国主義者が多いオーストラリアでも日本人を責める場面に遭遇したことはなく、中国では見ず知らずの多くの中国人に助けられた。

それは二本松でも同じだった。温泉や美味しいお酒、愉快な人たちと楽しい時間を二本松で過ごすことができた。

ただし何もしなくてもよいということではないと思う。世代を超えた当事者として、可能な範囲内で歴史を学び、先方の考えを理解することを怠っていては正常な信頼関係は生まれない。

二本松を去ってから20年、また岳温泉に行って、美味しいお酒飲みたいな、、、


80日強の赴任前訓練、週休一日でみっちりと訓練を受ける。講座数の半分以上を占める語学訓練では、東アフリカであればスワヒリ語、タイであればタイ語といったように派遣国によって修得する言語が異なる。マイナー言語の隊員候補生は大変そうである一方で、自分は幸いにも英語であったので、とっつきやすかった。

三か月みっちり英語の研修を受ければ少しはマシに話せると思いきや、思ったほど成長の実感はわかなかった。それを証明するかのように、赴任後は英語で苦労した。

語学訓練以外にも、さまざまな実技講座を受講させていただいた。特に印象に残っているのは鶏の解体、これは赴任後に実際に役に立った。

これらの素晴らしい訓練を受けたことは、一生の財産である(今現在、活かせているかどうかは別)。


訓練所には百数十人の隊員候補生がいた。

大手企業を辞めて国際協力業界へのキャリアチェンジを狙っているエンジニア、協力隊への憧れを捨てきれず何度も応募しやっと合格した看護師、協力隊活動期間後の医学部入試試験のためのコソ勉をしている薬剤師、などなど多種多様な人間が集まっていた。

同じ屋根の下、若い独身男女(一部既婚者あり)が寝食を共にすれば何が起こるか? 基本的に訓練所以外の外部との交信が断たれた環境で、今から任地へ赴くということでアドレナリンが上昇しっぱなしの隊員候補生同士、何も起こらないわけがない。

リアルな「テラスハウス」である。恋愛成就率が世間一般よりも圧倒的に高い状況を我々は「二本松イリュージョン」と呼んでいた。

しかしながら、この特殊環境の中(絶好の機会)であったにも関わらず、自分には全く浮いた話はなかった(泣)。

班割りはアイウエオ順で決まる。私は、全員の年齢が二十台の8班(総勢10名)に所属していた。役割りは「体育委員」。スポーツイベントの企画や朝のジョギングの先導役をしていた。語学訓練以外のイベントは基本的に班単位、訓練期間中は毎日行動を共にしていた。夜になると歓談スペースで身の上話や将来のキャリアの話など、いろんな話をしていた。苦楽を共にしていた彼ら・彼女らはかけがえのない仲間である。

ちなみに、8班(10名)中に「二本松イリュージョン」に罹患し、そのまま結婚してしまった班員は4名もいた。


訓練の最後は、語学最終試験。これに落ちると赴任日が遅れてしまう(赴任できなくなるかどうかは不明)。この試験を無事パスし、いよいよ修了式へ。

赴任を数日後に控えた興奮状態の隊員候補生、訓練をやり切ったという感情で泣き出す人、仲間と別れるのを惜しみ抱き合う人たち、異様な雰囲気の中、青年海外協力隊の歌「若い力の歌」を大合唱による感動のフィナーレ。

二本松訓練所入り口に設置されている「無事かえる」像の前で記念撮影し、それぞれの隊員が任地へと向かう。

自分もいよいよガーナへ赴任!!!

青年海外協力隊回顧録(赴任前編)

作:くるくるキャプテン

関連文献1:ガーナ再訪記
関連文献2:ガーナビジネス顛末記


100の小失敗をする No. 14「マンガを描く」

4年前に購入したMicrosoft Surface 4、一週間前にふとしたキッカケでスタイラスペンも同時に購入していたことを思い出す(購入時から一回も使用していなかった)。実際に触ってみるとある程度の絵は描ける。

「小失敗」を探していたので、これを機にマンガを描くことにした。

しかしながら、今までにマンガを描いたことは一切なし。マンガを読む頻度も少ない方だと思う。そんな自分が描くのだからマトモな作品になる訳がない。程よい「小失敗」になりそうな予感がしていた。

ちょうど、青年海外協力隊2018年秋募集が始まっていたので、マンガのテーマは自分の協力隊の経験。最近、若い人たちに協力隊の話をすることが多くなってきたのも理由の一つだ。

当初は四コママンガにしようとしたが、そのような構成力はなく、ただイラストを並べただけで、表現できないものはフォローの文書を載せることにした(「マンガを描く」との目的とズレてていることは目をつぶって)。

使用したソフトは無料のGIMP。サッパリ使い方が分からなかったが、ヘルプが充実しているのである程度は操作できるようになった。ただ、スタイラスペンの精度がイマイチで、思ったところにカーソルを動かせない(ペンタブ(5,000円)をAmazonで衝動買いしそうな気持ちを必死にこらえる)。

本来であれば、青年海外協力隊の「赴任前編」ではなく「活動編」を描写すべきであるが、力尽きてしまった、、、、

もしも反響があれば、続編(活動編や活動後編)も執筆したい。万が一、「続編が見たい!」というご要望があれば、お問合せフォームからご連絡ください(励みになり、描くかもしれません)

また、「青年海外協力隊」の他にも「くるくる会」「TOEIC」「シドニー」「北京」「手話」「ソフトテニス」「観光ラン」など描けそうなテーマは未だある。次はマンガという形ではなく、作詞作曲にしようかな、、、、、、

死ぬまでに100の小失敗をする

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